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包み込むパルス――北林加奈子の陶彫とその交感可能性について

森啓輔(千葉市美術館学芸員)


 工芸を自己表現の原点とする北林加奈子の陶彫は、うつわとしての道具性をそのフォルムに内在化させつつ、工芸と彫刻のあわいを彷徨っている。その終わりのない道程は、ここではないどこか遠くへと、無意識のうちに北林を引き寄せているかのようだ。異質な素材を一つの作品に取り入れるコラージュの手法を、大学在学中から試みていたことに端的に示されるように、他者を自身の内に取り込み、新陳代謝を繰り返す生命のありようと、作品はきわめて親近性を帯びている。ゆえに、生物的な「変成」と「変質」は、北林の作品表現にとって根源的なものだ。卵のような柔らかな丸みをもち、有機的なフォルムを備える陶は、基体として実に様々な他者を、その変成において要請するだろう。その時、糸や木、ガラスといった異素材、あるいは空気や光、湿度といった視覚に限定されない儚く、うつろいやすい外部の環境は、作品において宿命的とすらいえる要素となり、陶とそれらの生命的かつ微細な関係性が、いつでも重要な主題に浮上してきた。
 「感応と交信」と名づけられた本展は、そのような作家の問題意識との連続性において、まずは理解されるべきだろう。これまでも幾度となくみられたように、陶につながれた木や金属といった異素材は、物理的な距離の有無に関わらず、つながれたもの同士の交感可能性こそが問われている。成形と焼成後、関係性という接続の位相が探られている点に、生態系的ネットワークに比する場の形成の意味が、理解されるはずだ。作品としての場は、触覚的な調和に満たされる。統制されたこの展示空間は、コロナ禍という過剰な切断をまさに現在体験している私たちにとって、いっそう切実なものとして映るに違いない。一方で、工芸/彫刻をめぐる北林の彷徨は、自身の神経の失調という個別の(ゆえにいっそう過酷な)経験を経ることで、これまでとは異なるいくつかの変容を、本展の生態系的な場に導き入れている。例えばそれは、毛糸のような自然素材に代わり、関係性を示唆する役割を担うコードの存在である。コードとは、何より他者との交信の隠喩である。電気信号を滑らかに、かつ安定的に供給する人工物であるコードは、異素材をつなぎつつ、陶のフォルム、あるいは空間に添うようにしなやかで緊密な関係を結ぶメディウムだ。さらにその細い先端は切断され、内部の導体を放射状に拡げながら露出している。それらはまるでパラボラアンテナのように、全方位的に他者を受け止める受容体であろうとしている。
 もう一つの特徴は、物理的遮断を伴いつつ、奥の薄暗い部屋の畳に置かれた「urn」シリーズに見出される。内部が空洞であるそれらは、「壺」や「甕」とともに、「骨壺」を意味する「urn」の意味の重層性において、不在と存在を同時にその内部に潜勢させている。例えば本展での《感応と交信-1》では、極細のコードは外側にではなく、内側に向かって夥しく拡がっている。死者という存在の決定不可能性に貫かれた他者が、本展でも重要な位置を占めていることを、「urn」と《感応と交信-1》の照応は物語るだろう。かつて美術史家のエルヴィン・パノフスキーは、彫刻としての墓について精緻な分析を展開したが、北林の陶彫もまた接続を希求しながら、陶の表面の過剰な重なりによって、内部へのアクセスを遮断し遠ざけ、秘匿的な墓/彫刻の様相を示しさえする。
 身体上と社会生活の営みに、突如として起きた外部との断絶。その二重の断絶を経験した後、今回開かれる本展を読み解く上で、「電流」や「電波」、そして「脈動」を意味する「パルス」は、その作品受容に一つの可能性を与えてくれるかもしれない。美術評論家のロザリンド・クラウスは1988年に開かれたシンポジウムの場で、パルスについて触れている。パルスとはクラウスにとって、その生体的律動において、モダニズムの視覚性を支える形式的前提を瓦解させる「力」そのものを示していた。様々に変成する北林の陶彫は、切断と接続を二重化させた交信としての生命の造形を特質とする点において、パルス的な性質を持ち合わせている。ここで興味深いのは、パルスについてクラウスが参照したのが、マックス・エルンストのイメージ群であり、それらがコラージュの作品であったことだ。コラージュは、その方法論において、固有の意味連関から切り離された断片たちが、一つの場に集約されつつ、本質的には異質な時間と空間をどこまでも内包し続ける。本展において、微細な調和を空間に志向しながら、一方で時間の関節が外れ、機能を喪失した遺物や、あるいは宗教的儀礼にみられる象徴的な造形を召喚させていることに、このコラージュ的手法は起因しているといえるだろう。北林の陶彫は、異なる時間と空間のズレを柔らかに包摂するコラージュの手法でもって、異質な他者との交感を希求する。それらは、生命的な変成を絶えず繰り返しながら、作品を眼差す私たちに、あるいはここではない遠くの死者に、パルスの囁きでもって呼びかけている。