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手と表面——北林加奈子・髙山瑞・堀田ゆうか「whirlpool」展に寄せて

 

勝俣涼(美術批評家)

 

 

 本展「whirlpool」で共有されているのは、幼い子供が渦巻きを描く運動である。自他の境界が分化していない幼児はいわば、世界と直接、無媒介に融合している。ところで彫刻はしばしば、「触覚的」な芸術であるとされ、対象との直接的な接触感がその美学的な固有性として割り当てられてきた。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは『彫塑』(1778)において、幻影を与えるにすぎない視覚ではなく、手でつかむように物と関わる触覚によってこそ真実が把握できるとした上で、子供は視覚においても触覚に先導されるようにして感覚を働かせると述べた。「子供たちの目は、手が触れて感じるとおりに見る」(*1)のであり、私たちは彫刻を介して、それに準ずる経験に到達できるという。ヘルダーにとって彫刻は、「すべてを部分部分の形に添って、暗闇のなかで手で触れながら作っていくもの」(*2)だった。

 髙山瑞の《青の島の線分》のような木彫は、暗い樹洞に這い入り、加工面ときわめて近接した状態で振る舞う彫刻家の身体を想像させるために、触覚的な「近さ」が強調される。と同時に本作は、形態をひとつのまとまったボリュームに閉じる、統合的な表面=輪郭を与えるものでもない。彫像的なボリュームは通常、内側から外側に向かって膨らむような形状をなす。だが《青の島の線分》は反対に、外側から内側に向かって膨らみを作り、なおかつ、材質は単一の個体に収束することなく、群生する卵形の突起へと分割される。個々の突起の表面はさらに、鏨で断ち切った跡を留めるクリスタル状の多面体を形成している。ここで生じているのは、複数の相にわたる細分化である。両端が開放された筒状のフォルムも手伝って、虚のボリューム(空洞)として形を閉じることさえ阻害され、ボリュームに従属することのない「表面」こそが強調される。

 この点は本作に、ヘルダーの規準とは異なる方向づけを与えるだろう。というのもヘルダーは、過剰に分節化された細部を、彫像が表す人体をばらばらな部分に解体してしまうとして退けるからだ。ヘルダーはその例として、「一本一本の毛髪」(*3)を挙げている。だが本展に通底するのは、輪郭に縁取られた「人体像」として表現される身体概念ではなく、むしろ生理学的な次元にあるそれだろう。襞に覆われた腸管にも見える《青の島の線分》は、一種の中継的な循環路として開設され、展示空間を体内化するようでもある。

 これと呼応するのが、電気コードに陶製の鈴が接続された北林加奈子の《effector organ_1-6》だが、ここでは神経系が参照されている。音を発する鈴は、電気信号を送る発信器の比喩形象といえるが、その表面に植えつけられた繊維は、触覚的な感覚刺激の受容器とも捉えられる。実際、北林の彫刻において陶と繊維は、しばしば皮膚の表象を担う材質である。《there is》はその一例だろう。トルソを思わせる形状の表面は、釉薬が作る斑状のざらつきによって体表のような肌理を呈し、「毛穴」からはウールの紐が伸びている。焼き物や陶彫の制作プロセスにおいては、粘土の湿潤性を適切に調整、保持したり、焼成の過程で水分が蒸発するといった、生理学的ともいえる組成変化が進展する。ここでもまた、身体の表象は、痒みや温度、硬さの感取、あるいは吸収や発汗など、外形に還元されない生体反応の水準に向けられている。だが北林作品の身体的なインターフェースは、そうした反応を内在的に遂行する皮膚表面を示唆すると同時に、小ぶりなスケールも手伝って、「手」による外在的な働きかけを促す形態や材質性を備えてもいる。それは必ずしも、ただ触れるということに留まらない。《態度 attitude_1》は、異なる材質——軽く柔軟な布と、その四隅の硬い耳——の組み合わせにより、畳む、広げるという操作のみならず、「耳」を「脚」へと変換するようにして「立てる」操作をも可能にする。

 堀田ゆうかもまた、操作的な手動性やフォルムの編成を、独自の回路を通じて探究している。形象の描画や、絵具の塗りが平面上に施されるという点で、堀田の作品群は絵画的である。しかしその支持体は、木枠に張られたキャンバスとは異質なものであることに注意しなければならない。ふつうキャンバスは、制作に対して所与の基底面として与えられる。つまりそれ自体は、描画に先立ち、かつそれを受け入れる、透明なスクリーンと見なされる。しかし堀田の作品では、支持体が不透明化、すなわちその物理的な介在が前面に押し出される。線や形象が描画され、消し込まれ、上書きされ、結び合わされるのと同じように、基底材の板は一部を切り取られることもある。言ってみれば、形象と支持体が同等に処理されるということだ。そして線や形象の方もまた、透明なスクリーンに浮遊するのではなく、凹凸のある硬質な板の抵抗を受けた、フィジカルな摩擦の痕跡を留めている。

 ところで、堀田の絵を特徴づける要素のひとつに、互いに連なり、あるいは戯れる、白い小片の群れがある。《○ - 1》においては、背骨のように積み重なる円形が主要な垂直軸を形成し、画面のエッジで押し返されたように湾曲する細長い形象が、それを取り巻いている。《○ - 4》は、こうした小片のひしめきが主要素をなす例だが、ここではそれらを「軟骨」と呼んでみたい。それは、しなるようなそのフォルムゆえのみならず、弾性を含んだ軟骨の「コリコリ」という感触が、硬くざらついた板面にそれを描画する鉛筆の「カリカリ」という摩擦音と比較できるからだ。そして、その鉛筆をもつ手は関節の集合体でもあり、指の屈伸や手首のスナップといった動作に応じて、骨のあいだに摩擦と緩衝が介在する。つまり堀田作品において「軟骨」の形象は、描画されるもの(線や形)と描画するもの(身体)を、隠喩的かつ換喩的に結びつけるのである。

 皮膚という表面もまた、ざらつきと弾性を備えた接触面である。ここで参照した髙山、北林、堀田の作品は、対象から距離をとって全体の形を把握するのではなく、接触面から世界や身体について検討するアプローチを、それぞれの仕方で試みていると言えるだろう。

 

 

(*1)ヘルダー「彫塑」登張正実訳、『世界の名著 続7 ヘルダー ゲーテ』中央公論社、1975年、268頁。

(*2)同上、280頁。

(*3)同上、232頁。

*2025年開催のグループ展「whirlpool」に際してご執筆いただいたテキストです。

© 2022 Kanako Kitabayashi
 

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